●ミッチーのラコステ●

[NPO用語大辞典] [NPO人名大辞典]

○第22回 享楽主義へ〜僕がホモ・サピエンスである理由〜

ある塾帰り、ふと思った願望を考察しここに記す・・・。
半端無く長い上、管弦楽部にまったく持って関係の無い話題であることをお許しください(汗)。

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序文[Overture]
人生は楽しまなければ意味が無い。
そう思うのはなにも僕だけではないはずだ。
「享楽」こそ人間が人間であるためのものであり享楽主義こそ人間が人間である所以だと僕は思う。
だが享楽とは存在するのだろうか。
存在するのであれば、究極の享楽とは一体どのようなものなのであろうか。
我々が目指すべき「人間が人間である」がための人生とは如何なものなのか、考えていきたいと思う。

第1章[遊びを識るもの]
序文で「人間が人間であるために」と執拗に誇張したが、そもそも人間とは一体なんなのであろうか。
「人間が人間であるために」、すなわち人間が他の動物と決定的に違うところを追求していこう。
人間を定義する上で最もそれを簡潔に表したのは次の3つの語であると思う。
すなわち『ホモ=サピエンス(英知を持つもの)』『ホモ=ファーベル(工作するもの)』そして『ホモ=ルーデンス(遊ぶもの)』である。
その中でも僕が享楽主義として相手にしたいのは遊戯人を意味するホモ=ルーデンスだということは言うまでもない。
これを提唱したホイジンガは遊戯を文化とし、文化的発展こそ人間の本質であると主張した。
ここからは僕の意見であるが、その文化こそ芸術ではないかと思う。
我々人間は有史以来様々な作品を残してきた。
絵画・彫刻・陶芸・詩歌、そして音楽。
元々は「他者へのメッセージ」や「生活必需品」として創作された事に端を発したとはいえ、今日それらは単なる日常の道具という域から抜け出し芸術作品として君臨している。
すなわち我々人間は、自分たちが人間であるから生活の道具を文化にして「遊んでいた」のである。
これこそ人間が人間であるがための所以だと思う。
確かに我々は楽器を弾くことに快楽を見出しているであろう。
楽器だけではない、絵を描くこと、詩を読むこと、歌うこと全てに快楽を見出すのは我々が人間だからである。

第2章[Hedonism(快楽主義)]
では次に、前提知識として倫理的側面から見た享楽主義を見ていきたい。
享楽主義という語に最も近いと思われるのが快楽主義という訳を持つ「Hedonism」である。
ヘレニズム時代、エピクロスらエピクロス派によって提唱された「快楽主義」は『人間の幸福こそ快楽を追求することにある』とし、人間は究極の静的精神状態「アタラクシア」を目指すとした。
そのために人間に煩わしさをもたらす政治・公共生活を批判しそれらに参加することを避けるよう説いた。
ルネサンス期に入ると一時このような考えは身を潜め「人間性への解放」、「道徳観」といった方向に幸福論は流れる。
18世紀あたりになると再びこの快楽主義は息を吹き返すがまるっきりその本質を違えてしまった。
J.S.ミルによって提唱された功利主義は快楽は「量的であるより質的である」とし他者への献身的行為にその本質を求めた。
快楽主義における倫理史をざっと見てみたがこんなものである。
そこで、僕が考える享楽主義を考えると、最も近いのはエピクロス派の思想だと思う。
というのも僕は他者との関係を前提としたときに真の享楽は存在しないと考えるからだ。

第3章["享楽主義"論]
享楽主義は自分本位なのだと僕は考える。
そもそも他者の存在を前提に置いたとき、我々は享楽を実行することはありえなくなる。
享楽とは快楽の追求である、ならば仮に二人以上の人間がそこに存在したらならばその人々全員が快楽を得られなければ享楽とは言えず、そのようなことは限りなく不可能だといわざる得ない。
享楽主義の前に苦は有ってはならない事象であり、それらは徹底的に排除しなくてはならない。
それを憚るのが他でも無い「勝者の存在」でありそれに伴う競争心・向上心である。
競争があれば必ず勝者・敗者が生まれる、勝者は快楽を得るかもしれないが敗者は得ることは出来ずその時点で享楽ではなくなる。
そもそも競争の過程は一般的に苦である。
我々学生が最も身近な受験戦争について考えてみよう。
受験戦争のプロセスである勉強や試験に快楽を見出す人間はいるだろうか。
否、その先に見える快楽(志望校への合格や就きたい職業への接近)のためにわれわれは受験戦争に臨んでいるのである。
もちろんその影には快楽を得られなかった者の苦もあれば、受験戦争の一過程の中に存在する苦もある。
享楽主義、それは全ての人間が快楽を求められる環境と、一切の苦を排除した環境、両方が両立された世界にのみ存在できる。
人間が真の享楽主義になるためには競争心・向上心を破棄しなくてはならず競争の存在を否定しなくてはならない。
他者の存在があるから競争は生まれるのだから、やはり享楽主義の上で人間はそれを前提においてはいけないのである。

第4章[快楽の相対性]
もしここで競争を破棄すれば我々は勝利によって得た快楽を得ることが出来なくなる。
しかしここで快楽の相対性を考えてみる。
ここにトランプ以外の娯楽を一切知らない子供がいたとする。
その子にとってトランプは唯一絶対の娯楽でありその娯楽に没頭することが快楽になる。
しかし実際の子供たちはトランプのみに快楽を得ることは無い。
なぜならばその子供たちはファミコンを知っている、テレビを知っている、おもちゃに恵まれているからである。
トランプ以上の楽しみを知っているからトランプにのみ快楽を見出すということをしないのである。
ある快楽を続けることは、それ以上の快楽を知った者にとっては苦痛以外の何物でもない。
それ故にさらにうえの快楽を求めようとするのである。
いわばこれも競争の一種である。
しかしここで、それ以上の快楽が存在しないんだと思えばどうなるだろうか。
今体験している快楽こそが最大のものになるので「それ以上の快楽を求めよう」とは思わなくなり、この快楽こそ唯一絶対のものとなる。
故にそれこそが永続的な快楽につながる。
我々が今あるもので満ち足りないのはそれ以上のものが存在すると認識しているからであり、社会が常にそれ以上のものを生産してくれるからである。
このような現状にある以上、我々は永久の快楽を得ることは出来ない。

第5章[享楽主義への転向]
以上のことを踏まえた上でもう一度享楽主義について考えてみる。
すると僕は、人間が他者との関係を持たない個人の状態で芸術を追及していく生活こそが真の享楽主義的な生き方であると結論を得た。
少々差異はあるが、まさにこれはエピクロス派の思想にのっとったものである。
ではここで享楽主義に転向するためにはどうすればいいか。
たった今世界中の人間が一人残らず享楽主義者に変わったと仮定して考察してみる。
自分本位の享楽主義なので大前提に来るのは「自分の事は自分で"全て"やる」ということである。
食料の調達から住居の管理、それら全てを一切他者の手を介さずに行わなければならない。
もちろん逆に自分も他者にしなければならないことは無くなるとも言える。
食料の調達も、誰一人自分のために何かを生産してくれるということはなくなるので、まさしく自給自足の生活を強いられる。
それらを苦無くこなせる人間こそ真の快楽主義者なのだが、現在の世の中のことを考えると、我々はあまりにも他者に依存していることが多すぎるので仮に転向を考えるとしてもそのために莫大な時間と労力を要することになるというのは否定できない。
そもそもどうして我々は他者に依存するのか。
それは生活を効率的なものにするためであり、単なる「分業」をしてだけなのだ。
この分業は「他者は自分のために、自分は他者のために」という単純な利害関係を結んでいるにすぎず、社会とはこの利害関係が複雑に絡まりあっているだけなのである。
真の享楽主義の前に「他者のために何かしなければならない」という苦は存在してはいけないのでやはりここでも「他者との関係」を否定する根拠を見つけることが出来た。
もっとも奴隷制度はこの苦を排除して享楽主義に転向することを可能にするが人類全体のことを考えればやはりこれも真の享楽主義とはいえない。

結論[Finale]
結局のところ、我々は真の享楽主義を得ることは出来ないと結論付けざる得ず、享楽主義に転向など夢物語であると言わざる得ない。
それはもちろん現在が享楽主義とは程遠い環境にあるというのもあるが、何より我々人間が競争によってさらに上の快楽を求める生物であるからなのだ。
人間はホモ=ルーデンスであると同時にホモ=ファーベルでありホモ=サピエンスなのである。
悲しいかな人間は英知を得てしまったのでそれを追求する性質を帯びてしまった。
それが競争社会を生み、さらに上位の快楽を得ようとする動きにあるのは当然のことなのである。
なぜ人間は英知を得たのかはわからない。
生物の本能からくるのか、はてまた偶然な自然現象なのか、今それをここで結論付けることはできない。
須らくアダムとイヴが「神の英知を得たい」と智恵の実を食べたその瞬間から人間はこうなる運命にあると決まっていたのである。

永遠の快楽を求める享楽主義者は、「人間が人間であるがため」を追求するため人間でなくなったものだった。
僕はホモ=サピエンスのひとり。
だから常に更なる快楽を求め苦を感じながら生きている。
その苦こそ僕が人間である何よりの証なのだ。

最後までお読みいただき誠にありがとうございましたm(_ _)m
2005/11/30(Wed) 文責:先代図書委員長
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