日本の夏といえば?
花火。すいか。浴衣に豚の蚊取り線香
いろんなものを思い浮かべるけど、やっぱり日本の夏といえばアレよアレ。
アレって?
湿気に決まってるじゃない!!
朝起きたときから夜夢みるまでずっと人の体にまとわりつくもわもわ。
こいつがあたしの機嫌を確実に悪くしていることはまぎれもない事実で。
汗はかくわ手は滑るわ集中できんわで本来なら人の心をこれでもかと陶酔させるチェロのメロディーは、今音楽室のカーテンにへばりついているカナブンでさえも耳をふさぎたくなるような最凶の旋律へと変わっていた。
「チェロ」
指揮をするチェックのシャツを着た少年がこちらを向く。視線が痛い。
彼は何も言わなかったが一段高い指揮台からそそがれる視線はすべてを語っていた。
どうしてメロディーが二重にも三重にも聞こえるんだ!?もうちょっと自分の音を聞けってーの!それに入りが遅いんだよ。楽譜ばっか追ってるからそうなるんだろうが。目立つんだよ!!
目は時に口よりも多弁であり、そして正直である。
私はおそるおそる指揮者と視線をあわせると、にへらと笑って見せた。
くたくたになったTシャツを思い起こさせる締まりのない笑顔を見て彼は小さく息をつくと再び指揮棒を上げた。
「8から、低弦」
・・・ドーン
「10分休憩。半からロマンスやるよ」
指揮者がそう告げると音楽室はにわかに騒がしくなった。
ここができなかったあそこがやばかった、と口々に話している。
「お疲れですね」
チェロに顔を乗せてぐたーっとしていると、いつの間に横に小柄な老人が立っていた。
「じいさんか。また現れたな」
目だけをそちらに向ける。
この老人は最近私の前によく現れるようになった。
チェロを弾いていると気が付けばそこにいて、自慢のひげをなでながら部員たちの練習を見てあーだこーだと彼なりに批評すると満足していなくなる。
彼は他の部員には見えないらしく、私と老人の会話も聞こえてないのだという。
いろいろ考えた結果、大方老人は私の夏バテによる幻覚だろうという結論に達した。
「今日も酷い音でしたね」
「聞いてたのか。余計なお世話だよ」
「下手になったのは湿気のせいだけではないと思いますけどね。単に練習が足りないんですよ、あなたの場合」
・・・当たりである。苦し紛れににらんで見るが幻覚には通じないだろう。老人はそこら辺にある椅子をもってくると、それにちょこんと座った。
「あなたの下手くそなチェロはいいんです。今日は将来有望な一年諸君を見に来たんですから」
老人の視線の先にはドラゴンと呼ばれるファーストの一年生がいた。
「彼の奏でる音にはオーラが見えますね。一つ一つの音が美しくそれが連なると真珠の首飾りのようだ」
老人は目を閉じて先ほど聞いた音をはんすうした。
「今のコンマスもすばらしいが彼も良いバイオリニストとなるでしょう。それと、チェロの一年生、ほら、あのこもとても音程がきれいですよ。」
あなた負けてますと老人はちらっと私を見た。
「あの子は私よりチェロ歴が長いのよっ!」
「そんなこと言い訳にはなりませんね。全く、二年生が一年生をリードしなくてはいけないのにこれじゃあ」
私を挑発するかのように老人は大げさに肩をすくめてみせた。
「こ、この野郎」
私はつかんだ拳を振り上げられないまま、膝の上でプルプルさせているしかなかった。
そうこうしているうちにコンマスがチューニングを始め、皆が席に着きだした。
「おや、もう10分たちましたか。時が経つのは早いですねえ」
老人はひょいと椅子から降りると白く形の良い口ひげをひとなでして、ポケットから金の懐中時計を取り出した。
「今日はここで帰らせてもらいますよ」
「もう来なくていい」
「そうはいきません。あなたは私がいないとすぐさぼりたがる。そんなことじゃ本当に一年生より下手になってしまいますからね。あなたもそれは避けたいでしょう?」
そんなことは当たり前だ!!私がブンブンと頭を縦に振ると老人は笑ってひげをなでた。
「だったら努力なさい。努力すれば、あなただって上手くなるでしょう」
上達を妨げる一番の敵は自分のなかにあるというとこを覚えておきなさい。
最後にそう言うと老人はフッと空気に溶けてしまった。
「悟ったようなこと言いやがって!」
私は悔しそうに空を見ると、視線をチェロに戻した。
・・・確かに老人のいうとこは的を得ているかもしれない。
私はぎゅっと弓を握り締めるとロマンスのページをめくった。
「湿気なんかに負けるもんか!!」